「住民力」が集まれば、職人も道の駅も元気になる!! (二本松市)
二本松市は西に智恵子抄で知られる安達太良山を望み、東に白山、羽山などの阿武隈山地を有している。東西36キロメートルにおよび、その中央を阿武隈川が南北に悠々と流れている。その昔から二本松藩丹羽十万石の城下町として栄えてきた。05年12月には二本松市、安達町、岩代町、東和町が合併して、新しい二本松市が誕生した。
08年2月には作家の幸田露伴(1867~1947)のペンネームの由来とされる俳句を刻んだ地碑が、二本松市亀谷坂に建てられた。「亀谷まちづくり協議会」が露伴ゆかりの亀谷坂をPRし、より多くの市民や観光客に坂を訪れてもらおうと建立したもので、除幕式には市長をはじめ住民ら約1000人が集まったという。協議会では「露伴文学を生かしたまちづくりをすすめたい」としている。
露伴はもともと東京の出身だが、1885年に電信技士として北海道に赴任。2年後に文学を志して帰京。その道のりを記した「突貫紀行」によると、1887年9月28日に馬車で福島に到着した露伴は、福島から郡山までの50キロメートルを夜のうちに歩こうと決意した。そして、飲まず食わずで夜半近くに二本松の亀谷坂までたどり着いた。なけなしの銭で峠の茶屋「阿部川屋」であべかわ餅を食べ、近くで休んだときに読んだ句が「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」だったそうだ。
露伴は自伝的小説で当時を振り返り、露とともに寝た一夜が忘れられず、発奮の意味を込めて「露伴」をペンネームをつけたと記している。というわけで、地碑の除幕式の後は当時のあべかわ餅を再現したものを振る舞ったそうだ。亀谷まちづくり協議会では「こうしたイベントを一過性の話題で終わらぬように大事に育てていきたい」と話している。
また、二本松市は古くから職人のまちとしても知られている。とりわけ農家の道具づくりは、稲刈り後から冬の農閑期にかけて「よなべ仕事」として行われてきた。しかし、親から子へと伝えられてきた技術が伝承者の高齢化、後継者不足のため、消滅しようとしている。
そこで、人形細工人の斎藤徹さんは映像や文章、写真などでモノづくりの技を記録保存するために「よなべの会」を結成した。江戸時代に作られた瑠璃人形やからくり人形を検証しながら、制作や修理に取り組んでいるという。ちなみに、斎藤さん自身も日本に数人しか残っていない人形細工人のひとり。自分が試行錯誤して苦労してきた経験から、後世の人が「これを見て作ることができるように」という視点で記録をつづけている。06~07年にかけては「蓑」「タンガラ」「みしろ織り」「履物」などを記録してきたそうだ。現在も農民の生活と文化を後世へ伝えるために「よなべの会」は地道な活動rをつづけている。
そのほか、道の駅の活動も盛んだ。福島県には16カ所の道の駅があるが、なかでも二本松市の「道の駅ふくしま東和」は元気イッパイである。NPO法人ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会が、指定管理者として受託し、いくつかの委員会を立ち上げてさまざまな工夫をしているからだ。
たとえば「特産推進加工委員会」では、桑の葉を年間40トン買い上げて、加工、直売などを行っている。とりわけ加工が一番の収益事業になっているという。また、桑やキュウリ、トマトなどを使ったベジタブルなアイスクリームも好評だ。つぎに「あぶくま館事業店舗委員会」では、農家が持ち込んだ野菜を商店会の人たちに加工してもらって、いちじくのゼリーや羊羹を出しているという。さらに、福島駅のキオスク、福島駅のスーパー、県の観光物産館にも週2回ほど出店しているそうだ。そして「有機産直委員会」では、首都圏にじゃがいも、タマネギ、トマト、キュウリ、ネギを出荷。すでに1200万円ほどの売上げをあげている。「体験交流委員会」では、夏休みの10日間首都圏から農業体験にやってくる人たちをシッカリと迎え入れている。また、「地域資源循環センター」では、東和の地場産業である酪農を活用して、堆肥づくりに挑戦。地元農家につかってもらっているそうだ。
ちなみに現在、NPO法人ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会の会員は100名、準会員は100名。「道の駅ふくしま東和」では6000万円程の売上げをあげているという。
さまざまな人の力が集まって「道の駅ふくしま東和」は大きく飛躍を遂げた。それだけに幸田露伴のまちづくりにも二本松市の「住民力」が発揮されるのではないだろうか。
---- K.M 著 ----
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